神社の由来

辰尾神社全景

まつりは地域の活性化につながり、更には郷土の発展の原動力になると云われますが、特に福川の場合は正(まさ)にぴったりときます。その原点とも云うべきものが福川という大地ができあがる歴史の中にあるからです。

 今から約二百五十年前の宝暦十年(一七六〇)、辰之(たつの)尾(お)の地に天王(てんのう)さまというお社が勧請(かんじょう)されました。現神社の西側の境内がそれです。ご祭神は素佐之男(すさのおの)命(みこと)と櫛(くし)稲田(いなだ)姫(ひめ)命(みこと)の二柱の神ですが、この二神こそ福川という大地を造りあげるための最初の守護(しゅご)神(しん)であった訳です。

 ここを起点として、中町、東町、西町、西ノ端と帯状の大地が造られていったと云うことです。この間、これに沿った市井木の荒神様、上迫の幸魂社等が創建されました。

 次に、三島開作(羽島)の三島神社、室尾の地主権現、西桝開作の龍神様、更に保土ヶ谷化学の綿津見神社、そして最後に出来上がったのが海神社のある柏屋新田です。これが明治初年と云われておりますから、宝暦十年から百年余りで、現在の福川の原型が出来上がったことになります。

 さて、明治初年、福川の原型が出来上がると、福川村という町が誕生することになります。ここに辰尾神社の誕生が始まります。

 明治四十二年(一九〇九)前記各地域の守護神を最初の守護神天王様に合祀し、更に翌年の四十三年、村社、埴安(はにやす)社を勧請して、ここに氏神様としての辰尾神社が創建されることになりました。

 この時、かつてご神(じん)幸(こう)の露払いを司った市井木の長持ち行事もお祝いの神事として華々しく奉納されたのは云う迄もありません。そして、かんこ行事も新しく設けられ神事行事として続いていくことになります。

 大正から昭和に入ると、境内の拡張工事が行われ、昭和十五年(一九四〇年)総桧造りの新しい社殿が完成してまいります。これが現神社であります。